ビジネスマン奮闘白書「ハタラキモノ達の美学」
ビジネスマン奮闘白書「ハタラキモノ達の美学」

湖面に歌う白鳥のように
 学生時代に出場した音楽コンテストで、同じブロックにとにかく目立つバンドがあった。
 彼らが決勝大会に駒を進めたことにより、相馬敦が率いるバンドは本戦出場を逃した。

 そのとき、勝ち残ったバンドが、後の『爆風スランプ』だ。もともとミュージシャン志望だったが、しかし、このときの予選ブロックでの敗退が尾を引き、相馬はギタリストとしての夢をあきらめる。

「自分ではそこそこイケてると思っていたんです。ギタープレイに関してはね。でも演奏だけじゃダメなんです。もし、私にプロとしてやっていける総合的な実力と運があれば、彼らにだって負けなかっただろうし、予選通過はおろか本戦でも1位にだってなっていたと思いました。でも、現実は爆風の彼らには勝てなかった」

 諦めたくない気持ちもあったが、同時に自らの実力の無さと、続けていける度胸の無さにも気づいていた。進路についてはかなりの葛藤があったが、最終的にはアーティスト、ミュージシャンをサポートする仕事に就きたいと思った。自分が表に立つ夢はあきらめても、できるならば音楽を創りだす仕事に携わっていたいと考えたからだ。

 12年前に現在のレーベルを設立するまで、相馬は何度も所属する会社を変わってきた。だが、その先々で担当したアーティストの中には、私たちが青春時代に聴いていた懐かしいミュージシャンの名前が少なくない。

 旅行会社に勤務する二つ年上の従兄弟に進路の相談に行ったら、マージャン仲間のひとりにつのだ☆ひろ始め、音楽関係者がいると言う。その関係者に口を利いてもらい、紹介された最初の面接先が井上陽水のオフィスだった。

「陽水さんが現場マネージャーを探していたんです。でも、マネージャーって運転免許がないとダメなんですね。在学中、私は音楽ばっかりやっていて免許なんか取得していないから、ないと言ったら、あっさり不合格になった」

 そのすぐあとに、カルメンマキ&OZのギタリスト春日博文がリーダーのバンドの手伝いをした。そこには、後にVOWWOWに加入することになる人見元基が居た。当時から英語も堪能で日本人離れしたヴォーカリストだったと、相馬は回想する。
ビジネスマン奮闘白書「ハタラキモノ達の美学」その1
 当時の相馬はまだ大学在学中で、また、春日のバンドも正式にスタッフを雇えるほどの余裕はなかった。春日はそのことをキチンと相馬に話してくれた。でも相馬は、そのバンドに携われることが嬉しくて、無給でマネージャー見習いのようなことを続けさせてもらった。

 しかし、その間に相馬は大学を卒業してしまう。春日もさすがにまずいと思ったのだろう。あらためて、給料も払えなくてすまないと言われ、春日の知人を通して紹介されたのが藤田弓子、樋口可南子、小林薫らが所属していたマネージメントオフィスだった。時給制ではあったが、この会社で初めて相馬は給料というものをもらい、社長の厚意で「寸志(ボーナス)」も支給された。

 が、在職期間は約3ヶ月だ。相馬が音楽関係の仕事をしたがっていることをその社長は知っていて、ここでも次の仕事先を紹介されるのである。初めて関わった音楽の仕事は、スタジオミュージシャンやレコーディングスタジオのブッキングを専門とする会社だった。

 アルバム制作のレコーディングに、アーティストは様々なレコーディングスタジオを使う。そのスタジオを確保し、なおかつレコーディングに必要な機材をそろえ、スタジオミュージシャンが必要であればミュージシャンのアポイントを取りつけることを主業務とする仕事だ。

「面接に行ったんです。そうしたら、ずっとスタジオにいる仕事だし、時間は不規則だし、休みもなかなか取れないよ。仕事が終わるのは銭湯なんか閉まっている時間になるだろうから、風呂付きのアパートに住んだほうがいい。それと、給料は安いから……、面接なのにそんなことばっかり言われたんですね。でも、仕事でレコーディングスタジオに居られる!なんて素晴らしいんだ、と楽しい気持ちばかりが先行していた。事実、、起きている時間の大半をスタジオで過ごすことになりました」

 当然のことではあるが、レコーディングセッションが終わるまでブッキングの担当者はずっとスタジオにいなければならない。

 たとえば、13時スタート、17時終わりの予定で、まずはリズム録りをするようなスケジュールを組む。リズム録りとは、キーボード、ギター、ベース、ドラムといったオケのベーシックとなる楽器を録音することだが、こちらは比較的予定どおりに進行するらしい。

 しかし、19時スタート23時終わりの予定でギターやボーカルのダビング(レコーディング)が始まると、アーティストによっては翌朝近くになってもまだ終わらないことがあり、事実上のエンドレスになってしまう事も珍しくないそうだ。アルバム制作にあたり、アーティストは2ヶ月、3ヶ月の単位でスタジオを使うことが当たり前のようにあるからである。
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 相馬の肩書きは“レコーディングコーディネイター”というものだったが、コーディネイターは最後までスタジオにいなければならなかった。アーティストはもとより、レコーディングエンジニア、音楽プロデューサーら全員の食事の世話をしたり、体調管理に目を配ることもコーディネイターの仕事のひとつだった。

 スタジオには誰よりも先に入って、出るのも最後──、ようやく曲が完成したかと思ったら、すぐ次の進行が始まるといった具合で、結局はスタジオに寝泊まりするような生活が続く。

「確かに休みは取れないし……、取れないどころか、いつ家に帰れるかわからなかったし、面接で言われたとおり給料も安かった。スタジオに拘束される時間が長かったから、遊ぶ時間もお金を使う暇もなかったです。確かにきつい仕事だったけど、でも楽しかった。若かったからというのもあると思います。とにかくこれから世に出る音を、畳1畳分はあろうかという大きなスピーカーで、直に聴ける感動は何ものにも替え難かった」

 そのときの相馬は、自分がいま音楽業界で働いている歓びを実感していた。

「プロのレコーディングに初めて立ち合ったとき、自分はミュージシャンになれるわけもなかったと思い知らされました。レベルがぜんぜん違った。譜面をセッティングするのも私たちの仕事でしたが、スタジオで譜面を渡すと、彼らは初見でいきなり弾き始める。数時間後には1曲仕上がっているレベルです。そういうことが当たり前のようにできるのがプロのレベルなんだと」

 相馬がコーディネーションを担当したアーティストには、庄野真代、チューリップ、甲斐バンド、ユーミン(松任谷由実)、本田美奈子らがいた。アーティスト系ではない『宇宙戦艦ヤマト』のサウンドトラック制作のコーディネーションもあった。

 コーディネイトに関わる仕事をしたのは約3年だが、その間仕事を覚えていくうちに、徐々に制作そのもの全てに携わりたい、という願望が相馬の脳裏に芽生えてきた。

「ブッキングの仕事は、レコーディングに立ち合うとは言っても、音創りそのものに直接関わっているわけではありません。また売れる、売れないといった事の責任もないわけです。その分、安定しているとも言えるけど、どこか物足りない。未熟ながらも、自分のアイデンティティにこだわり始めたんでしょうね。
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 幸い、スタジオではディレクターやミュージシャンの方々と一緒に話したり、どういう音がOKで、どういうときにNGを出すのかの判断等について学ぶ機会にも恵まれた……、だからといってすぐにその仕事が出来るとは思いませんでしたが、レコーディングの現場のみではなく、制作全般に携わりたいという思いはどんどん強くなっていきました。その頃、毎日頭の中をよぎっていたのは、、今考えるとね、かなり怖いもの知らずだったんですけど、、自分が居なければ、何も動かないという現場で仕事をしたい、ということでした」

 松任谷正隆のマネージャーが辞めるという話が相馬の元に舞い込んできたのも、そんなころだ。

 ユーミンのコーディネーションを担当したこともある相馬は、松任谷正隆とも、そのマネージャーとも面識があった。マネージャーとは年代も近く、良く一緒に食事に行ったりもする仲だった。すぐさまマネージャーに連絡を入れると、自分が辞めるのは本当だが、すでに新聞にもマネージャー募集の求人を載せたという。

 凄まじいばかりの数に及ぶ応募があったらしい。それでも構わないから面接を受けさせてくれと相馬は頼み込み、松任谷正隆本人に会いに行く。厳選に次ぐ厳選のなかからマネージャー候補は絞られたが、結果的に採用されたのは、割り込みのようなかたちで面接を受けに行った相馬だった。だから、相馬も、あのときはちゃんと応募した人たちに申しわけないような気持ちがあったと言う。

 当時の松任谷正隆のマネージャーは、文字どおりマネージャーとして音楽を始めとする仕事全般のスケジュールを管理しつつ、もうひとつ、松任谷由実の原盤制作ディレクターを兼務する立場でもあった。

 原盤とは、音楽業界で“マスター”と呼ばれる音源のことだ。マスター音源は、作詞、作曲、編曲、そして歌唱者の著作権の全てが集約されているオリジナル中のオリジナルだ。松任谷正隆のマネージャーは、その原盤制作、即ちレコーディングの現場をも担当するのである。相馬にとってこの重責は相当なものであった。

 ましてや、ユーミンと言えば、オリコン初登場1位は当たり前。押しも押されもせぬポップス界の女王だ。その原盤制作に携わる仕事といえば、音楽業界で働きたいと思う人ならば、誰もが就きたい仕事だったことだろう。そのように名誉あるポジションを、割り込みのようなかたちで射止めた相馬は、嬉しい気持ちの反面、他の人に申しわけないとも思ったようだ。

「私は確か25歳でした。採用されたときは、望んでいたこととはいえ、とにかくビビりました。ユーミンの原盤制作に携わるんですから。若さ故に気持ちのうえではその名誉ある肩書きに酔った部分もありますが、その肩書きに早く追いつこうという必死の思いのほうが強かった。肩書きが人を育てる、とも言いますよね。そうなりたい一心でした」

 いまも当時の関係者の間で語り草になっているエピソードがある。

 初出勤のその日、相馬はいきなりロサンゼルス行きを命じられた。成田空港を夕方に発つ便である。松任谷正隆はすでにLA入りし、新作のミックスダウンにとりかかろうとしていた。ところが、機材の調整に必要な信号が入ったテープが現場になく、作業を始めることが出来ない。その信号が入ったテープを届けるのが、相馬の初仕事だ。

「初出勤した瞬間、相馬君、パスポートは持っているよね?と訊かれて、、たまげました。。そのとき、アパートで猫を飼っていたんですね。ロサンゼルスに行くのはいいけど、いつ日本に戻れるかの指示がないんです。1週間は現地にいることになるかもしれないし、1ヶ月くらい滞在することになるのかもしれない。その間の猫の世話をどうしようかと思って。。もちろん大家さんには内緒でしたし・・」

 恐る恐る上司に切り出した。実は、猫を飼っているのですが、と。

 すると、上司は笑い出した。そうか、お前には可愛い子猫ちゃんがいるのか──、そう言って、わかったわかった、だったらこのテープを届けたら、子猫ちゃんのところにすぐ帰って来いと言って、また笑った。子猫ちゃんとは、大人の“隠語”で、秘密の可愛いガールフレンドのことである。

「思いっきり勘違いされちゃいましたね。相馬はユーミンのロサンゼルスレコーディングよりも子猫ちゃんが大事だったらしいとか何とか。新人の初仕事だったから余計にね……、今でも昔の仲間と会うとからかわれるんです。まあ、火のないところに煙は立ちませんけど」
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 かくして、相馬はロサンゼルス空港でスタッフにテープを渡すと、そのスタッフの好意で空港の周りを1周してもらって、その日の午後の便で帰国した。アメリカに滞在したのはほんの2時間ほどだったという。可愛い子猫ちゃんのための、文字どおりのとんぼ返りである。相馬の名誉の為にいっておくが、人間の子猫ちゃんではなく本当の猫であった。

 しかし、こんな話でも武勇伝があるというのはいいことだ。後に事を為す者、名を馳せる者は、若かりしころに何かしら周囲の笑いを誘うエピソードを残すものなのだ。それが大物の片鱗と言っていいのかもしれない。

 相馬が松任谷正隆のマネージャーとユーミンの原盤制作に携わった期間は約3年だ。

 その間に発表したアルバムには、Directed by もしくは Co-Directed by Atsushi Soma のクレジットが刻まれている。Coというのは「共同」の意味だ。当時レコード会社であるEMIサイドにもベテランの担当ディレクターがおり、作品によって「共同」のクレジットがある。私の年代では懐かしい『VISUALIVE DA DI DA』や『アラーム・ア・ラ・モード』『ダイアモンドダストが消えぬ間に』である。相馬は回想する。「あの当時ああいった名誉あるクレジットを頂けるような、その名に恥じぬ仕事が出来ていたかといえば、決してそうではない。むしろ多くの事を学ばせて頂いた」と。

 ユーミンを全面的にプロデュースしていたのは夫の松任谷正隆であり、相馬の仕事はあくまでその補佐に過ぎない。だが、アルバムは売れに売れ、結果はついてくる。その事実が後に相馬のジレンマとなっていく。

 松任谷正隆のもと、そのままユーミンの原盤制作に携わっていくことで将来を考えることは素晴らしいことであった。それは相馬の人生に、名誉のみならず安泰という名の居場所が与えられるということでもあっただろう。

 だからなんです、と相馬は言う。相馬は、約3年で松任谷正隆のオフィスを辞しているのだ。

「アルバムをリリースすれば必ず1位になる。その原盤制作に携わった者として、名だたる人たちと肩を並べられるようになってしまう。普通なら口もきけないような音楽業界の大物と呼ばれる方々から頼まれ事をされる……、そのときの私はたかだか28歳ですよ。そんな経験も浅い若造がアルバム制作にあたっては、毎回数千万円クラスものバジェットを組んでいた。私は若年であることと裏腹に、そういった立場を全うしようと日々必死でした。金銭感覚も含め、年齢や経験不相応な毎日が当たり前になってしまうことに、怖さすら感じ始めていました」

 夫妻があまりにビッグネームだった為、自分自身の人間としての成長以上に肩書きと日々の感覚がマヒしていってしまう自分が怖かったと相馬は言う。

「友人に相談したらね、相馬さんは、その仕事を自分の意志で選んでいると思っていませんかって言われたんです。つまり、、松任谷正隆のマネージャー、ユーミンの原盤制作ディレクターという職業は、今現在この地球上に相馬さんだけだと。ということは、相馬さんが望んでいる事ももちろんだけど、もっと大きな流れの中で選ばれていると思って、仕事を全うすべきなのではないですか? と。衝撃的でしたね」

 少なくとも当時、相馬だけが、松任谷正隆マネージャー兼ユーミンの原盤制作ディレクターのポジションに就くことを許されていた事は事実だ。

「この仕事をやりたい人いますか?って世間に向かって訊いてみてくださいよ、間違い無くあちこちから手が挙がりますよ。座れるものならば、多くの人が相馬さんの席を切望している。でも、その席に座れているのは相馬さんだけです。だったら、相馬さんはその仕事に“選ばれ”ているんだって言われてね……、選ばれし者なんて考えは、自分自身おこがましいですけど、百歩譲って、もしも私が選ばれた者だというならば、なおのこと悩みながら仕事を続けるのは、それこそその仕事に失礼だろうと思ったんです」

 松任谷正隆のそばにいて、努力を惜しまず頑張れば、相馬の人生にその後の波風は立たなかったかもしれない。

 だが、相馬はそうした人生を選ばなかった。若く怖いもの知らずの成せる技か、、男一匹、この先一生、松任谷夫妻に食わしてもらうわけにはいかんだろう、という思いのほうが勝っていた。

「退職を申し出たら、松任谷さんはご機嫌斜めで、、確か1ヶ月くらい、口をきいてくれなくなってしまって・・退職はできましたが、そうとうお冠だったみたいです」
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 これにも後日譚がある。

 松任谷は、常々、相馬を一人前にして適材適所で働かせてやりたいというようなことを周囲に洩らしていて、相馬を本気で育てる気になってくれていたらしい。つまりは、相馬をずっとそばに置いておくつもりだったようなのだ。

 が、松任谷にそんな期待を寄せられていたとはつゆ知らず、また私的にも大変お世話になっていながら、相馬が退職を願い出たものだから機嫌を損ねたというのが実情のようだ。

「私自身、、そういった話を後から知ったんです。どういった経緯で知ったのかは記憶が定かではないのですが、、そんなに目をかけていてくれたのかと思うと、申しわけないやら、とんでもない不義理を働いたような気がしてね……、今思い返せば、楽しい思い出ばかりですし、松任谷さんには本当にたくさんの事を教わりましたし感謝の気持ちでいっぱいですね」

 他人を蹴落としてでも這い上がるくらいの気概がなければ生き残れない音楽業界にあって、相馬の考えはやや良心的に過ぎるのかもしれない。松任谷正隆ほどのビッグネームに目をかけられながら別の道を選んだ相馬を、愚か者呼ばわりする人だっているかもしれない。だが、私には、相馬の良心と理性が後々の仕事における大きな糧となっているようにも思えなくはないのだ。

 次に相馬は、山本コータローや松山千春らが所属したこともあるレコード会社の幹部だった知人に誘われて、秋元康が新設した会社に籍を置いた。

 音楽業界では“企画CD”と呼ばれるが、秋元康の徹底したマーケティングに裏打ちされたヒット企画のノウハウを学ぶかたわら、相馬は開設された秋元康作詞塾の講師を務めたりもした。天才と謳われる秋元のビジネススタイルに舌を巻きつつも、しかし、相馬の在籍期間は2年と少ししか続かなかった。

 どうしても、そりが合わない上役に遭遇してしまったからである。

 広告代理店を自ら経営するその上役は、なるほどリサーチ、売り上げに関して見事な実績を誇っていたが、全身全霊を賭けて音楽に取り組む人たちをどこか軽んじているような節が言葉の端々に感じられたからだという。

「私はCD制作の現場をずっと歩んできたわけです。だから、アーティスト達が音楽に賭ける意気込みも肌で感じてきています。彼らが大切にしたいものも自分なりには理解しているつもりです。なかには、それこそ殴り合いになるんじゃないかってくらい言い合って曲をつくるアーティストだっていた。彼らは絶対に安易な妥協はしませんから。CD制作の舞台裏というのは、えてしてそういうものです。そういった緊張感のある仕事に対して、悪気はないんでしょうが、軽んじられるような事を言われては──」

 この人の下じゃ働けないと思った。

「秋元さんは、立場上難しかった事もあったと思いますが、最大限、理解を示してくれました。暖かい言葉で送り出してくれましたね。」

 そして、転職。
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 縁あって相馬の6回目の転職先となったのが『ファンハウス』というレコード会社だった。そこでの相馬は新人発掘を手がけることになる。あまたいるアーティスト志望者の中に逸材を見出し、華やかなステージへ送り出す――、当時自分にとって最適な居場所を見つけたような気がしたと言う。

「ファンハウスには30歳から39歳になるまで、約10年勤めたんです。それまでお世話になった会社の中ではいちばん長かった。社長にも上司にもとても良くして頂いた。でも、しばらく、、それもかなり長い期間、鳴かず飛ばずというのか、ヒットどころか赤字ばかり出してました。ある上司からは「お前、いつまで赤字社員続けるんだ」って言われてね。。事実でしたから仕方ないです。そういった意味では、あまり優秀な社員とは言えなかった。最終的に退職するときは、、正確に調べたワケじゃないですけど、もしかしたら帳尻は合っていたのかもしれませんが。。アーティストの発掘、育成というのは、やり甲斐はあるんだけど、結果を出すことが本当に難しいです」

 ファンハウス在籍時の後半で相馬が出会ったアーティストが『ザ・イエロー・モンキー』だ。

 彼らはすでにメジャーデビューを果たしていたが、当時移籍先を探しているらしいという噂がまことしやかに囁かれていた。探りを入れてみると、どうやらその噂は本当らしい。

 当然のように大手レコード会社が水面下で獲得交渉に動き、相馬も動いた。そして、1年近くにも及ぶ水面下の交渉と信頼できる外部ブレーンのお陰で、イエローモンキーの移籍を実現するのである。彼らの担当ディレクターはもちろん相馬だ。

「あのころ、彼らはまだ電車で移動できたのかな……、そろそろ電車に乗ることができなくなっていた時期ですね。すでに実績も出し始めていて、だからもちろん私が発掘したわけじゃありません。でも彼らの曲を聴いていて、メロディも歌詞もサウンドもルックスも、、久しぶりに格好いいバンドが出てきたなと思っていた。余談ですが、私はレッドゼッペリンというイギリスのバンドがとても好きなのですが、イエローモンキーというバンドの存在感全てにレッドゼッペリンに感じるのと同じ、唯一無二感を感じていたんです。自分の仕事に照らし合わせれば、彼らのようなアーティストを発掘しなきゃダメだよなって意味にもなりますけど。何しろファンハウスではほとんど実績らしい実績を残せてなかったので」

 移籍交渉をするずっと以前に、相馬はコンピレーションCDの制作で、イエローモンキーの音源を借りに当時の所属レコード会社に何度か出向いた経験があった。ファンハウス内にも彼らをとても好きなスタッフが居たことがあり、その頃から、相馬は“イエモン”のサウンドはイカしていると思い続けていたのである。

「純粋に彼らの音楽が好きでした。オールドファッションなルックスもですが、もし彼らがもっと大きくなったら、私の心の中で、、どう言えばいいのかな、、音楽業界に対して一石を投じる事になるんじゃないかという思いがあって。。だから私にすれば、彼らの音楽創りに、少しでも自分が役立つことが出来たらどんなに幸せだろう、という思いのほうが強くて、だから交渉したと言うよりは気持ちを伝えたと言ったほうがいいかもしれない。ビジネスだからそれなりの交渉はしましたけど。でも、結果として、様々な人達の尽力、縁もあって彼らと仕事をする機会に恵まれた」

 A&Rディレクターとして最初にシングル『楽園』を手がけ、次いでアルバム『SICKS』『PUNCH DRUNKARD』とイエローモンキーは立て続けにヒットを飛ばしていく。凄まじいまでのアーティストパワーだった。超多忙だったが、相馬にとっては、これまでに経験したこともないような、充実した素晴らしい時間だった。

 だが、その素晴らしい時間も、バンドの活動休止宣言で終焉を迎える。

「彼らはどちらかと言えば年齢的にもブレイクするのが遅かった方だと思います。それだけ苦労もしているし、苦労を知っている分、みんな大人でした。メンバー同士の間にもお互いをリスペクトする気持ちがありましたし、ファンの人達に対しても、周囲のスタッフに対しても、ものすごく気を遣う人達でした。そういう意味でも活動休止に際して、バンド内の事だけはなく、外部に及ぼす様々な影響についても考えていたのではないかと推察します」

 かつての相馬が松任谷正隆に仕え、極論すれば相馬自身、ユーミンの人気と曲の売り上げから生活の糧を得ていたように、イエローモンキーという巨大なプロジェクトに従事し、生活の糧を得ている人達が大勢いたことは言うまでもない。

「彼らは、サウンドもイカしてたけど、人間としても素晴らしかった。だから、イエローモンキーが活動休止したとき──」

 相馬もレコード会社を退職した。イエローモンキーのA&Rディレクターとして音創りに携わってきたが、自分の役割もここまでだと感じたからだ。

 それがいまから12年前、39歳のことだ。
ビジネスマン奮闘白書「ハタラキモノ達の美学」その1

*  *  *

 ファンハウスを辞したとき、相馬はひとつのことを決めていた。

 もう誰にも仕えない、どこにも所属を求めない。そう決めて、自分の会社を設立した。幸いにも僅かばかり蓄えがあって、相馬に手を貸してくれる人達もいた。

 設立した会社は『スワンソング』という。相馬自身、熱烈なレッドゼッペリンのファンであることからもその由来は窺い知る事が出来る。加えて「スワンソング」とは、白鳥が末期に振り絞るように鳴く声を意味する。その声音はこの世のものとは思えないほどに切なく、美しいのだそうだ。だから、スワンソングは“辞世”や“遺作”とも訳される。

 レッドゼッペリンに最大の敬意を表し、この世に美しい音を残すという意味と願いを込めて、相馬はこの言葉を社名にした。

 相馬の仕事は、やはり新人アーティストの発掘だ。そのために、年10回ほどのペースでオーディションを開催している。多いときには60組から100組に及ぶ応募がある。選考は、対面で歌唱してもらうか、郵送された音源を聴いてみるところから始まるが、郵送で届いた場合も可能性を感じる場合は最終的に目の前で歌ってもらう。

「まずは、声です。それから、どんな歌詞を書くかですね。加えてシンガーソングライターであればメロディライン。私はこれらの要素を重視しています。インパクトのある声はそれだけで聴く人を説得するし、またアーティストたるもの、説得出来なければならない。だから、声にその力が、可能性が宿っているかどうか。歌詞には、その人がアーティストとして活動していくとき、自分が何を表現し、何を伝えたいのか、そういった感性が表れているかどうか、といった事も大切にしているポイントです」

 ただ歌がうまいだけという人には、あまり魅力を感じないと相馬は言う。

 音楽業界を見渡せば、歌唱力のある人など星の数ほどいる。それだけの素養なり才能を持った中で、ぽんと頭ひとつ抜け出る逸材は、歌う力以外にも何らかの付加価値が求められるのだ。そういった逸材を私たちはアーティストと言い、その発掘が相馬の仕事であり、もう誰にも仕えないと決めた相馬の生き方だ。

「音楽を創造し、それを世に出すということはリスクが付きものです。欧米では、つまり音楽業界の世界基準に照らしてプロデューサーと言えば、リスクを背負う立場の人間を指します。彼らは、アーティストと共に時には私財を使ってでもその作品に賭ける。だから、担当したアーティストが売れなかったりコケたりすれば、精神的にも経済的にも一緒につらい思いをする。これが本当の意味でのプロデューサーなんだと思います。私も、出来る限りそういうプロデューサーでありたいと考えています」

 イエローモンキーの移籍を実現させたときのように、スワンソングが契約を交わしたアーティストの卵たちに、相馬は思いのたけをぶつける。私はきみたちに賭ける、だから、きみたちも生半可な気持ちでプロになろうなんて思うなと。時間的にも精神的にも経済的にも共にリスクを持ち合い、常に崖っぷち感のなかで、緊張感を持って臨んで欲しいと。

「私が一方的にアーティストを育てるのではなく、彼らの個性や能力が私の経験や知識、持っている力を引き出してくれる、そしてそれらをアーティストの為に活かすことが出来るのだと思っているんです。ひとつの才能に出会ったとき、私は常にその力を発揮できる立場でいたい。今は無名の彼らを、いつかは陽の当たるステージに立たせてあげたいですね」
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 湖面に浮かぶ白鳥は、水面では気高く歌い、優雅にも映るが、水面下では必死に脚を掻いて藻掻いている。相馬が社名をスワンソングとつけたのは、スポットライトを浴びる華やかなステージに立ちたければ、白鳥のように人知れず必死に藻掻けという意味も込められている。

「ミュージシャンやアーティストを志す人の中には、そのためにバイト生活を続ける人もいます。役者や作家志望の人もそうですね。夢のためなんだから、苦しくても頑張れると思う。でも、たとえバイト生活であっても、いま自立出来ていない人、即ち食えてない人はダメだと思います。自分の生活基盤すらつくれない人間が、音楽の世界で食えるわけがない」

 曲がヒットすれば、確かにいい生活はできる。

 だが、そう単純なことではないと相馬は言う。下積み時代の生活は苦しいかもしれない。しかし、その下積みや不遇の時代に、やるべきこと、学んでおくべきことを怠った者は、決して白鳥のように飛び立つこともできないと。

 アーティストを志す者は、誰もが売れたときの自分を思い描いて下積み時代に耐えるが、そのとき、同時に携わってくれている人達の心を知ることをしなければ白鳥にはなれない。どんなに才能があっても、人の気持ちがわからない者に、人を感動させる曲など作れるわけがない。心の冷たい者に、人の心に灯りをともすような歌を歌えるわけがないのだ。

 誰もが耳を澄ますような美しい旋律を耳にするとき、しかし、白鳥は水面下で必死に藻掻き続けてもいる。必死に藻掻き続けた者だけが、聴く者の心を魅了する。


(文中敬称略)

写真/矢内耕平